2014.08.29 Friday
エットレソットサス、倉又史朗氏、そして。。。。。
少しブログに時間が開いてしまったのは、ソットサス事務所に若い頃修行をしていた
久田修司さんが突然亡くなってしまいました、ソットサス事務所にいた1980年代から
ミラノへ行ったら訪ねていたし、東京に戻った頃もイタリアの延長で良く遊んでいました。
几帳面で少しでも曲がった事が嫌いな性格だったので、真っ正面から良くぶつかりました、
でも、正直に自分の気持ちを話せる友人でした、倉又史朗さんの突然の死の時と同じような
焦燥感が体中に広がり、とても寂しい,取り消しの着かない寂しさに襲われました。
日本の文化がとても深く残る近江の城下町でお母様の為に設計された
’ひなどり’という割烹、勿論オープン当時はインテル二誌に掲載されて
今も其のはかない美しさは保たれているようです。
最近は友人達との直接の接触は断ち、フェイスブックでのエットレソットサス
倉又史朗氏の作品を沢山紹介していました。。。。。。。イタリアのデザイン史のような
文章が印象的です。
久田修司さんの突然の死で親しかった友人が六本木のアクシスビルで
追悼会を企画、メンフィスがスタートした1980年代の倉又史朗氏の
写真,作品がスライドで映写されました。勿論倉又美恵子夫人も駆けつけていらして
倉又史朗氏の作品を作り続けた、石丸社長、三保谷硝子の三保谷社長は薄いグレーの
絽の着物で出席されていました。
1982年、イタリアミラノからエットレソットサスが、倉又史朗氏に当てた
ラブレター:’メンフィスの活動に参加して下さい!’
そのころのエットレソットサスと倉又史朗さんの白黒写真。。。。。。。。
90歳と長生きしたエットレがいつも日本に来る度に‘偉大な倉又史朗氏の
作品を忘れては行けない!人は直ぐ大切な事を忘却してしまうから、、、、、、’
倉又史朗氏が突然亡くなった前の週はエットレも日本にいて,三日三晩、
お酒を浴びる程呑んで、日本食を一緒にしました、そして少し具合が悪いと
病院に一晩検査入院したら亡くなってしまいました。。。。。炎が消えるように。
写真家の中道さんが久田修司さんが好んでいたお寿司屋さんの出で立ちで現れて
久田修司さんの椅子のを皆に見せて、川上元美さんに出来を評価してもらっていました。
線香花火が消えるように姿を消した友人、もしかしたらとても繊細で華奢で
恥ずかしがり屋の久田修司さんには似つかわしい去り方だったのかな?
寂しさを紛らわしています,,,,,,,